違う、これは初子先生じゃない。
線香をあげ、挨拶に出てきた親族と祖母が言葉を交わしている間も、陽翔は写真を凝視していた。
「お寒いのにわざわざありがとうございます。よろしければこちらでお茶などを」
「いえいえ、すぐにお暇いたしますから」
「そんな事をおっしゃらずに。今日はお車ですか?」
「いえ、電車です。駅からは市バスで」
「ではこれから駅まで? それは大変だ。こちらでタクシーを呼びましょう」
祖母も親族も離れていく。斎場の脇に親族の集う小部屋があった。襖は開かれている。中から話し声が聞こえてくる。
「じゃあ、足を滑らせて?」
「何でそんな夜中に?」
「瑠駆真君を探しに出ていたらしいのよ」
「あんな夜中に?」
「瑠駆真君と初子さん、喧嘩をしてたらしいわ。隣の部屋の人が、外まで声が響いてたって言ってたの。それで瑠駆真君が家を飛び出しちゃって」
思わず顔を向ける。部屋の隅で、背中を丸めて膝を抱える陰鬱な少年。その性格にはもったいないくらいの美貌が、無感情に、無愛想に窓の外へ向けられている。
先生が死んだのに、涙一つも流さないなんて。
憤りが胸の内に広がり、耐え切れなくなって顔を逸らした。その先に、視線の彷徨う初子の写真。
違う。これは先生じゃない。俺は初子先生に会いに来たんだ。先生はどこに?
目の前に置かれた棺。白地に光沢の入った、刺繍が施された、滑らかそうな、柔らかそうな布が貼り付けられている箱。
この中に先生が?
身を乗り出し、棺の窓に手を掛けた。両開きの窓は開いていた。
初子は、眠っていた。
白い肌は透き通るようで、化粧の施された頬は紅色に光っていた。髪の毛も梳かれ、唇はピンクに艶やぎふっくらと閉じられている。菊やその他の花に埋もれる初子は、まるで眠っているかのようだった。
眠っている。
氷の眠り姫は、キスをしても陽翔を見てはくれなかった。
でも、先生は違う。
窓に掛けた手に力を込め、身を乗り出して覗きこむ。
先生はいつでもまっすぐに俺を見てくれていた。
だがその瞳は、今は硬く閉じられた瞼によって隠されている。
眠り姫。王子様のキスで目を覚ますお姫様。
そっと唇を重ねた。
愛しい人。
その唇はとても硬くて、冷たかった。まるで、唇に霜焼ができてしまうかのように。
眠り姫。氷で造られた冷たい人。
初子の顔を見つめた。その瞳は瞼によって硬く隠され、決して陽翔を見る事はない。この先、もう二度と、その瞳に陽翔の姿が映る事は無いのだ。
白い頬に、ポタリと染みができた。それは時を置かずにまたポタリ。
涙が、後から後から溢れ出す。見開かれた奥二重の瞳からポタポタと零れ出す。陽翔の視界を遮る。まるで初子の姿をかき消そうとするかのように。
目の前の姿は明日には灰になる。もうすぐ消えて無くなるんだ。
そう言い聞かせるかのように、陽翔の視界を濁らす。
嘘だ、嘘だっ! こんなのは嘘だっ!
涙が零れて初子の頬を濡らす。
先生、俺、先生が好きなんだ。愛してるんだ。本当に本当に大好きなんだ。だから俺を見てくれよ。いつもみたいに俺を見て笑ってくれよっ!
だが、初子が目を開く事はない。
初子先生。大好きな先生。いつもみたいに俺を見てくれよ。いつもみたいに、もっとその顔を見ていたいよ。
乗り出した陽翔の身体を、後ろから太い腕が抱きかかえた。
「おい君、何やってるんだっ」
「陽翔、まぁっ、何やってるの」
祖母の声が遠くで聞こえる。
嫌だ。先生、俺を見てよ。
必死にしがみつく手を無理やりに剥がされ、陽翔は二人の男性に抱えられるようにして棺から離された。
先生、俺を見てよっ!
涙が詰まって声にならない。必死に縋り付こうと腕を伸ばして身を捩った。その視界に、邪魔するかのように姿が入った。
膝を抱え、背中を丸めて俯く少年。こちらの騒ぎなどには目もくれず、ぼんやりと呆ける無感情な少年。母親が死んだというのに表情も変えず、涙一つ流さず、無愛想に背を向ける覇気の無い少年。事あるごとに初子を悩ませ、初子の瞳を揺るがした少年。明るくハツラツとした母親には似ても似つかない陰鬱な少年。
見ているだけで腹が立つ、初子の息子になる資格も無いはずの少年。
「瑠駆真君を探しに出ていたらしいのよ」
初子を死へと追いやった少年。
人殺しっ!
憎悪を込めて睨みつけた。
初子先生をさんざん悩ました挙句殺しておいて、それなのに涙一つも流さないなんて。
許せないっ!
拳を握り締め、歯を食いしばる。
人殺しっ! 人殺しっ! お前なんかが先生の子供でいるからこうなったんだ。お前なんかがこの世に存在するから先生は死んだんだ。お前のせいで、お前のせいでっ!
涙がボロボロと零れ落ちる。頬を伝い、食いしばる唇を次々と濡らす。
許せないっ! 許せないっ! 絶対にお前は許せないっ!
陽翔は怒りを込めて瞳を閉じた。
先生の幸せを、先生を幸せにしてあげるはずの俺の夢を、お前は無残に壊したんだ。壊して踏み潰して、メチャクチャにしたんだ。
お前は俺の幸せを奪った。
再び開いたその瞳が、怒りの炎でギラギラと燃える。
俺と先生の幸せを奪った。だったら、俺もお前の幸せを奪ってやる。
睨み付ける瞳から、大粒の涙がポロリと零れた。
お前なんか、幸せになる価値もないんだよっ!
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