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【アラベスク】  第15章 薄氷の鏡



第1節 陽だまりの涙 [4]




 違う、これは初子先生じゃない。
 線香をあげ、挨拶に出てきた親族と祖母が言葉を交わしている間も、陽翔は写真を凝視していた。
「お寒いのにわざわざありがとうございます。よろしければこちらでお茶などを」
「いえいえ、すぐにお(いとま)いたしますから」
「そんな事をおっしゃらずに。今日はお車ですか?」
「いえ、電車です。駅からは市バスで」
「ではこれから駅まで? それは大変だ。こちらでタクシーを呼びましょう」
 祖母も親族も離れていく。斎場の脇に親族の集う小部屋があった。襖は開かれている。中から話し声が聞こえてくる。
「じゃあ、足を滑らせて?」
「何でそんな夜中に?」
「瑠駆真君を探しに出ていたらしいのよ」
「あんな夜中に?」
「瑠駆真君と初子さん、喧嘩をしてたらしいわ。隣の部屋の人が、外まで声が響いてたって言ってたの。それで瑠駆真君が家を飛び出しちゃって」
 思わず顔を向ける。部屋の隅で、背中を丸めて膝を抱える陰鬱な少年。その性格にはもったいないくらいの美貌が、無感情に、無愛想に窓の外へ向けられている。
 先生が死んだのに、涙一つも流さないなんて。
 憤りが胸の内に広がり、耐え切れなくなって顔を逸らした。その先に、視線の彷徨う初子の写真。
 違う。これは先生じゃない。俺は初子先生に会いに来たんだ。先生はどこに?
 目の前に置かれた棺。白地に光沢の入った、刺繍が施された、滑らかそうな、柔らかそうな布が貼り付けられている箱。
 この中に先生が?
 身を乗り出し、棺の窓に手を掛けた。両開きの窓は開いていた。
 初子は、眠っていた。
 白い肌は透き通るようで、化粧の施された頬は紅色に光っていた。髪の毛も()かれ、唇はピンクに艶やぎふっくらと閉じられている。菊やその他の花に埋もれる初子は、まるで眠っているかのようだった。
 眠っている。
 氷の眠り姫は、キスをしても陽翔を見てはくれなかった。
 でも、先生は違う。
 窓に掛けた手に力を込め、身を乗り出して覗きこむ。
 先生はいつでもまっすぐに俺を見てくれていた。
 だがその瞳は、今は硬く閉じられた瞼によって隠されている。
 眠り姫。王子様のキスで目を覚ますお姫様。
 そっと唇を重ねた。
 愛しい人。
 その唇はとても硬くて、冷たかった。まるで、唇に霜焼ができてしまうかのように。
 眠り姫。氷で造られた冷たい人。
 初子の顔を見つめた。その瞳は瞼によって硬く隠され、決して陽翔を見る事はない。この先、もう二度と、その瞳に陽翔の姿が映る事は無いのだ。
 白い頬に、ポタリと染みができた。それは時を置かずにまたポタリ。
 涙が、後から後から溢れ出す。見開かれた奥二重の瞳からポタポタと零れ出す。陽翔の視界を遮る。まるで初子の姿をかき消そうとするかのように。
 目の前の姿は明日には灰になる。もうすぐ消えて無くなるんだ。
 そう言い聞かせるかのように、陽翔の視界を濁らす。
 嘘だ、嘘だっ! こんなのは嘘だっ!
 涙が零れて初子の頬を濡らす。
 先生、俺、先生が好きなんだ。愛してるんだ。本当に本当に大好きなんだ。だから俺を見てくれよ。いつもみたいに俺を見て笑ってくれよっ!
 だが、初子が目を開く事はない。
 初子先生。大好きな先生。いつもみたいに俺を見てくれよ。いつもみたいに、もっとその顔を見ていたいよ。
 乗り出した陽翔の身体を、後ろから太い腕が抱きかかえた。
「おい君、何やってるんだっ」
「陽翔、まぁっ、何やってるの」
 祖母の声が遠くで聞こえる。
 嫌だ。先生、俺を見てよ。
 必死にしがみつく手を無理やりに剥がされ、陽翔は二人の男性に抱えられるようにして棺から離された。
 先生、俺を見てよっ!
 涙が詰まって声にならない。必死に縋り付こうと腕を伸ばして身を捩った。その視界に、邪魔するかのように姿が入った。
 膝を抱え、背中を丸めて俯く少年。こちらの騒ぎなどには目もくれず、ぼんやりと呆ける無感情な少年。母親が死んだというのに表情も変えず、涙一つ流さず、無愛想に背を向ける覇気の無い少年。事あるごとに初子を悩ませ、初子の瞳を揺るがした少年。明るくハツラツとした母親には似ても似つかない陰鬱な少年。
 見ているだけで腹が立つ、初子の息子になる資格も無いはずの少年。

「瑠駆真君を探しに出ていたらしいのよ」

 初子を死へと追いやった少年。
 人殺しっ!
 憎悪を込めて睨みつけた。
 初子先生をさんざん悩ました挙句殺しておいて、それなのに涙一つも流さないなんて。
 許せないっ!
 拳を握り締め、歯を食いしばる。
 人殺しっ! 人殺しっ! お前なんかが先生の子供でいるからこうなったんだ。お前なんかがこの世に存在するから先生は死んだんだ。お前のせいで、お前のせいでっ!
 涙がボロボロと零れ落ちる。頬を伝い、食いしばる唇を次々と濡らす。
 許せないっ! 許せないっ! 絶対にお前は許せないっ!
 陽翔は怒りを込めて瞳を閉じた。
 先生の幸せを、先生を幸せにしてあげるはずの俺の夢を、お前は無残に壊したんだ。壊して踏み潰して、メチャクチャにしたんだ。
 お前は俺の幸せを奪った。
 再び開いたその瞳が、怒りの炎でギラギラと燃える。
 俺と先生の幸せを奪った。だったら、俺もお前の幸せを奪ってやる。
 睨み付ける瞳から、大粒の涙がポロリと零れた。
 お前なんか、幸せになる価値もないんだよっ!







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